神戸商科大学奥飛騨ヒュッテ建設史(寺本OB、藤田OB、藤本OB)

  この原稿はまだ未了状態にあることを断っておきます。皆様のご協力で内容を充実させて行きます。  
    神戸商科大学体育会山岳部として、山小屋を所有したいという願望は常に強く持ち続けていた。その場所としては、神戸の背山である六甲山の岩場近くか、兵庫県北部の氷ノ山辺りか、はたまた信州方面かと逡巡していた。
  結局、大学山岳部山小屋が当時一軒も立地していなかった穂高岳の岐阜県側に着目した。そして、槍見温泉手前で、バス道が右岸から左岸に渡った所にあった旧宝温泉の隣地(地主は宝岳館主、故谷口元三氏)を借地し、厚生省国立公園部平湯事務所に建設許可申請の段階にあった。
 
    そこへ痛恨の笠ケ岳遭難が発生した。(神戸商科大学体育会山岳部誌「稜線」参照)
  春の雪解けで故福谷充弘君のご遺体流失を防ぐため笠谷に構築した「やな」の用材払い下げなどで、厚生省国立公園部平湯事務所には大変お世話になるとともに親しい間ともなった。
 
  遭難時、北飛山岳救助隊(隊長松井憲三氏)はじめ地元住民、旅館、各官庁らの暖かいご支援は決して忘れないが、年末年始連日マスコミは全国にこのニュースを流し続け、結果的に奥飛騨の知名度は飛躍的に上がるところとなった。

松井憲三氏(昭和38年11月13日自宅前にて、中野OB提供)

 
    このような背景のもと、穴毛谷に慰霊碑建立、山小屋建設計画を立ち上げ、関係官庁と地元に理解を求めたところ格段のご好意を頂いた。かくて岐阜県側に、それも奥飛騨最奥部に始めて大学山岳部山小屋が実現することになる。後年、慰霊碑は水害で流失、現在は山小屋の礎石部に移し、はめこんで現在に至っている。  
 
 
流出前の福谷ケルン(中野OB提供)
 
    00年00月00日、現地入りした寺本、市場谷は00平米の建設用地を確定杭打ちを行い、現在地が確定した。当時小屋上の堰堤はなく、敷地は奥飛騨の森の中にあった。(当日の様子
 
   藤田清三の友人設計士、志賀嘉重氏(京都工芸繊維大学工学部卒、京都工芸繊維大学工学部山岳部OB。平成22年1月現在、株式会社小河建築設計事務所代表取締役会長、社団法人大阪府建築士事務所協会理事)が設計を担当、二階の窓から焼岳の噴煙を望む絶景はかくて実現した。工務店は000組に依頼した。  
  厚生省に提出した申請書上の小屋建設趣旨は「神戸商科大学自然公園研究所」となっている。ヒュッテ立地に向けた趣意書には伊賀隆部長が自然公園の経済学的効果や国民厚生の向上に向けた研究の必要性を訴えたことが効を奏した。
 
    遭難碑銘板は、国鉄鷹取工場鋳造部門で正副2枚無料鋳造して頂いた。原文と揮毫は大西雄一先輩である。
 
    時々灘の生一本をお土産に持参する程度のお礼しかしないのに、近隣の中崎山荘(水波社長)には好意的なお申し出を得て、温泉自由利用、合鍵保管、電話など現地連絡所機能、不在時管理などをお任せしていた。灘の生一本は、水波社長への健康上の配慮やご家族のことも考慮し、現在では阪神間の有名店のケーキになっている。  
    遭難碑銘板は、国鉄鷹取工場鋳造部門で正副2枚無料鋳造して頂いた。原文と揮毫は大西雄一先輩である。
 
  神戸商大同窓会「淡水会」機関誌の創刊号(1961)に笠ガ岳遭難報告が掲載されているが、偶然表紙を飾る絵もまた風流画家の一面も持つ大西雄一先輩が往時の国鉄垂水駅を描いたもの。また、その第5号(1964)には山小屋の竣工記事が掲載されている。
 


はじめての冬を迎えるヒュッテ  (藤田OB提供) 

 
   
稜線山岳会(神戸商科大学山岳部OB会)、兵庫県立大学山岳部
 
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